感心感心@野村克也氏のスピーチ

クマーーーーーー

’05・11・6 野村克也氏(楽天イーグルス監督)のスピーチ
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私はとても貧しい家に生まれ、農作業を手伝わなければいけなかったので、服にも弁当にも不自由し、自分の時間もほとんどなく、劣等感の塊でした。
野球を始めたのは中学時代。部活の時間は兄が作ってくれました。プロ野球に入って親を楽にする・・・、これが目標でした。
捕手になったのは、プロ野球選手としての寿命が一番長かったからです。
しかし、高校時代はどの球団からも声がかからず球団テストを受けるしかありませんでした。
テストを受けるとき、その当時の正捕手たちの年齢を比べたら、自分が一軍に上がれそうだな、と思ったので南海ホークスを選んで受けました。300人のテスト生の中からラッキーにも7人の合格者の中に入りました。当時の年収は84000円。大学出が120000円くらいでした。合宿費を差し引くと、月4000円しかありませんでした。
私は一軍に上がることを夢見て毎日練習に励みましたが、二軍の練習試合にすら一試合も出ることができず、挙句に翌年クビを宣告されました。球団側から『君は絶対、一流選手にはならないから辞めてもらうしかない!』と言われました。私は食い下がり、根負けした球団側はもう一年契約をしてくれました。私は2流、3流の自分が、他の選手と同じことをやっても一軍に上がれるわけは絶対ないと思い、自分の24時間を考え直しました。お金がないので鉄棒で懸垂、鉄アレイで腹筋、腕立て伏せ、素振り最低300本を毎日やると決めて頑張りました。
時々やりたくない時、やれない理由がある時もありましたが、自分との戦いだと考えて、毎日毎日やりました。
遠投力がないという理由で捕手から内野手に変更を勧められた時もありましたが、前にも述べたように、どうしても捕手になりたかったので、毎日練習後、二塁までのキャッチボールをしました。しかし3ヶ月間何の変化もありませんでしたが、それでもやり続けました。
4ヶ月目にやっと球団にも認められるようになり、その年ウエスタンリーグのベスト2位に入れました。4年目で一軍レギュラーとなり、順風満帆でした、が5,6年目は相手から研究されて壁にぶつかりました。2割5分は行くけど3割は行かない。どうしたらいいのかを考え、今では当たり前となったデータ取りをし、ピッチャーのほんの少しの癖も研究しまくり、すべてのピッチャーの癖を読めるようになりました。
そして三冠王までもとることができました。
考え方が変われば行動が変わります。目標に向かって当たり前のことを当たり前にやるだけです。
ところがほとんどの人がそれに気づかないのです。最大の悪は「鈍感」です。
人は3人の友を持つと言われます。
1、原理・原則を教えてくれる人
2、師と仰ぐ人
3、直言してくれる人
監督としての仕事は、この自分の経験があったためできているのだと思います。