いたい人

goro3582005-02-04

昨年、知り合いの母が白血病で亡くなった。腸の調子を整えるために古式醸造の味噌を入れた玄米のお粥などを熱心に取り入れていた。同時に濃縮ミネラルも飲ませていた。残念ながら持ちこたえることはできなかったのだが、看病していていろいろと助かったと言っていた。
痛みが和らいだようで、途中から「痛い」と言わなくなったのだという。玄米が良かったのか、ミネラルが良かったのかは分からないが、見守る方にしてみれば相当救われた気持ちだったろう。最後はとてもイイ顔で臨終になったそうだ。
こんな話を聞いて「痛い」と「いたい」にも関係があるのではないかとふと思いついた。痛いと言っていると、ここに(とどまって)いたいの意味になって、なかなかあちらの世界に行くことができない(死ねない)のではないだろうか。あの世には肉体を持って行くことができない。例えるならば、あの世の入り口は魂だけがやっと通ることができるくらいの狭い穴で、肉体を持ったまま入ろうとすると穴に引っかかった部分が痛いのではないだろうか。この世に未練があって、肉体に執着があれば、この世にとどまっていたいとの気持ちがそのまま「痛い」につながるのではないだろうか。
来るべき死に直面して、従容として受け入れることができた時に、魂は肉体の束縛から解放されて、楽にあの世へ行くことができて、引っかかるものもなくなるから「痛くない」になり、この世にとどまっていたくないということになるのだと、僕ひとり納得していた。
実際、終末医療の現場で患者に玄米食を導入すると、劇的に痛みが軽くなるのだという。
地球村の代表、高木善之さんが言っていたのを思い出す。

「怒り」について
人はコミュニケーションにおいて「怒り」を表現するのは最終手段であるべきだ。例えば母タコは卵を守っている時にそれを狙って敵がやってきたらどんな相手であろうと立ち向かう。大きな魚だったら母タコは足を食いちぎられる。それでも母タコはひるまない。命を懸けているから痛みなど感じないのだ。続けて2本、3本と食いちぎられて、やがてボロボロになっても死ぬまで戦うのだ。対して人は話し合うことができるのだ。怒りに支配されて命を懸けて戦うのは、あくまでも最後の手段にするべきだ。

むむむ、喩えがまずかったかもしれないが、とにかく肉体次元での命への執着がなくなると「痛い」ではなくなるということになる。
昨年、縁で坊さんと語りあうことができた。僕の最も興味がある「悟り」について、いろいろと教えてくれて至福の時を味わった。彼の禅宗では、過去に数多悟りに至った高僧がいて、悟り方も実にさまざまで思いがけないものがあった。その中になるほどと思った話があった。ある僧が山を下りる時に、道端の草花も道も傷めず、そして足も痛めずに空気のように下りることに注意を払っていた。そこで石に蹴つまづいて「お〜痛い!」と叫んだ瞬間に、「この痛みはどこから来るのか」と考え、そのまま悟りの境地に達したのだという。
僕は分かった気がして、その解釈を彼に聞くことなく終わってしまったが、おそらく痛いと感じた現象を境にして物質界と意識界、そしてこの世の仕組みを織り成すものとそれを構成するものの関係を窺い知ったのではないだろうか。
前々回の日記「乾布摩擦」で皮膚刺激のことを書いたが、痛みなどの感覚には大変な意味があるのだと思う。だからといって痛いのは御免だが・・・。板井・整骨院とかヤダな〜。