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goro3582005-02-20

SONYは日本人である盛田昭夫氏が創った会社。
宇野正美さんの情報によると、SONYはStandard Oil New Yorkの略で、ロックフェラーの会社なんだと。
その辺、気になる記事を見つけた。
ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(5)

◇ http://www.yorozubp.com/0406/040625.htm ◇
・抜粋・
読売新聞が1991年12月3日付朝刊に掲載した「盛田・ロックフェラー対談」の一部。
この記事はデビッド・ロックフェラー自身がビルダーバーグ会議やトライラテラル・コミッションのことを語っている点で世界的にも貴重な資料となっている。故盛田昭夫ソニー元会長も1992年から93年までトライラテラル・コミッション(三極委員会=旧日米欧委員会)の日本議長を務めていた。そして、この対談は山本正の司会で米ニューヨーク州ポカンティコのロックフェラー邸で行われた。

ロックフェラー家と盛田家との関係は40年に及んでいる。故盛田昭夫・夫人である盛田良子様が日経ビジネス(2002年10月21日号)のインタビューでこの件について次のように語っている。
「主人は63年の年明けに渡米し、仕事の合間を縫って子供たちの学校探しをしていました。それを聞いて力になってくれたのがスミスバーニー(現ソロモン・スミスバーニー)でソニーのADR発行の担当役員でいらしたアーネスト・シュワルツェンバックさん、そして彼の部下でいらしたサミュエル・ハートウェルさんでした。シュワルツェンバックさんは後にソニーアメリカの社長としてもご活躍されました。子供たちの学校として紹介してくださったのはセント・バーナード私立男子校でした。娘はセント・バーナード私立男子校の姉妹校であるナイチンゲール・バンフォード・スクールという女子校に通いました。(中略)そこに集まる子弟の父母は大変に立派な方々でした。ここから私たちの交友関係は大きく広がりました。後の米CBS社長フランク・スタントンさんとの出会いも学校の父母の1人からご紹介を受けたものでした。そして、そこからCBS創設者で会長のビル・ペイリーさんともお親しくなり、CBSソニーレコード、今のソニー・ミュージックエンタテインメント設立への足がかりになりました。(中略)ペイリーさんはニューヨーク近代美術館(MoMA)のボード・オブ・トラスティーのチェアマンもしておられました。そこからロックフェラー家の方々のご紹介を受け、主人はMoMAのチェアマンズカウンセラーになりました。私は今もMoMAのボード・オブ・トラスティーを務めていますが、それもこの頃の縁からお引き受けしたものです。」
CBS、出た〜〜〜〜〜!。
「住んでみると、周りの人とも付き合うし、学校のPTAを通じていろいろな人とも知り合いになる。日本の人とは全然付き合わなかった。一年半居た間に勘定してみたら、家に350人ぐらいの人を招待している。そうやっているうちに、今度はこっちが呼ばれるわけです。そうすると、またいろいろな人を紹介してくれる。」(1989年1月9日付日経産業新聞
日銀の人が言っていたのを思い出す。食事に誘ってメー○ンに組み入れていくワケだな・・・。
〜そして、盛田昭夫の快進撃はここから始まるのである。〜
盛田昭夫の国際的な人脈に大きな転機をもたらしたのは米国の名門銀行持株会社、J・P・モルガンの国際諮問委員会のメンバーになったことである。就任したのは1969年3月。
89年5月、就任後20年たったのを機に退任。新たに選任された日本人が小林陽太郎だったのである。小林はかつてロックフェラー銀行と呼ばれたチェース・マンハッタン銀行とJ・P・モルガンが2000年に大同団結して生まれたJPモルガン・チェースの国際諮問委員会に今なお唯一の日本人メンバーとして名を連ねている。

盛田昭夫は1999年10月3日に78歳で亡くなる。翌年2000年2月2日には「盛田昭夫をしのぶ会」がニューヨークのジャパン・ソサエティー主催で開かれ、デビッド・ロックフェラーヘンリー・キッシンジャーポール・ボルカー、ピーター・G・ピーターソンなど約300人が会場を埋めた。

盛田氏はTIMEの表紙を飾ったことで有名。
しかし錚々たる交友関係。ロックフェラーから出資を受けてSONYが創られたと言われても否定できないな、こりゃ。