ユダヤプロトコルその2

我々の目的には戦争は欠くべからざるものである。が、できる限り、戦争が領土的な利益をもたらさないように仕向けるべきである。そうすれば、戦争は経済に基盤を置くようになり、この領域において各国は我々の支配の強力さを思い知らされるであろう。また、戦争当事国は双方とも我々が国境を越えて放っている我々の代理人団(エージェント)の思うがままに操られることになるだろう。どんな国境も我々のこの活動を阻止できはしない。
私個人にはどんな制約があろうとも、我々のエージェントが百万の眼を持って監視し情報を収集しているので、節穴になることはない。むしろ手に取るように事態が掌握できる。
 世界にまたがる我々の法は各国の法を無効にしてしまい、丁度国家の市民法が国民の関係を律するのと全く同じように、我々の法の方が正確に各国を支配することになるであろう。
我々が公衆の中から選んだ行政官たちは、奴隷のように従順な資質であるかどうかを厳しく監視され、支配技術に長けた人物にはさせない。それゆえに、彼らは、我々の賢人と顧問と、全世界の諸問題を律すべく幼年期より養育された助言者・専門家の手中に握られ、将棋の歩(ふ)のような役目を引き受けることになる。
諸君もご存知のように、我らの専門家たちは、歴史の教訓や一瞬一瞬の現実の出来事の観察から、我らの政治計画に必要とする学術を体得しているのである。

 これに対して、ゴイムの専門家たちは、歴史の事実の赤裸々な歴史的観察を為し得ず、一連の結果に厳しい批判を加えることなく機械的に空理空論に走り、何ら批判的研究を為し得ない。
故に、我々は彼らに一顧も与える必要もない。時が一撃をくらわせるまでは存分に遊ばせ楽しませてやろうではないか。過去の栄光に新しい形を与える希望に生きさせてやろうではないか。古き良き思い出に浸(ひた)らせてやろうではないか。

 彼らには、我々が「科学が説くところでは」(学説)と吹きこんだ科学的法則を信じこませ、それを後生大事にいつまでも墨守させておこうではないか。
我々が一貫して、新聞マスコミを通じて、声を大にしてそれらの学説を盲信させるべく使う。それが言論機関の目的である。ゴイムの知識人たちは彼らの知識にいい気になり、論理的検証を行なうことなく科学から得た知識すべてを信じこむだろう。

 その知識たるや、我らの代理人団たる専門家が、ゴイムの心魂を手なづけてわれわれが望む方向に赴むかせんが為に、巧みに断片を寄せ集めたものなのである。
ここに述べたことは根も葉もないことであるとは、瞬時たりとも考えないでいただきたい。我々が仕掛けたダーウィン主義ダーウィニズム)、マルクス主義、ニーチエ主義が、いかに功を奏しているかに注目していただきたい。

 我らユダヤ人にとっては、少なくとも、これらの指導者たちがゴイムの心魂に及ぼしたことどもを直視すれば、事は十分に明白であろう。
政治上の、また、行政上の諸問題の方向において些細な誤りを避けるためには、各国民の思想、気風(性格)、民情傾向を顧慮することが絶対に必要である。我々の方式は、我々が遭遇する人民の気質に応じて様々に仕組まれ案配されるけれども、もしも過去の成り行きと現状とを睨み合わせて上手な運営ができなければ、この方式の勝利はおぼつかない。
近代国家は、大衆の世論を創り出す強力な力をその手に持っている。すなわち、新聞・雑誌がそれである。新聞・雑誌が果たす役割は、必要欠くべからざるに至った国民の声を指摘し、世論の声を伝え、大衆に愚痴のはけ口を与え、不平不満を表明させ更にはそれを作り出すことにある。

 言論の自由の勝利が具体的になるのは新聞においてである。だが、ゴイムの国家は、いかにこの力を効果的に使うかについては知っていたためしがなく、つまり活用法を知らなかったこともあって新聞・雑誌は我らが手中に落ちた。新聞・雑誌を通じて、我々はその背後にあって、影響力を行使し得ることになった。

 金力が我々の手中にあることを周知のことであるが、我々が新聞を手中にする過程も又実に、血と涙の海の中においてであった。我々は、あまたの同胞を犠牲にしてきた。けれども、今や十分に報いられている。わが方の犠牲の一人一人は、神の前においては千人のゴイムに相当する。