保存「ユダヤ・プロトコル・1」

諸君、我々は、美辞麗句や空疎な言葉による観念遊戯を控え、思想の本質を総合的に究め、我々を取り囲むもろもろの事情に対して比較と推論の光をあて解き明かそうと思う。

 ここで、二つの観点、即ち我々自身の観点とゴイム(豚的動物すなわち非ユダヤ人)のそれを提起し、両者の違いをはっきりさせ、我々の体系を明確にしてみようと思う。
世の中には、低級粗雑な考えを持つ人の数の方が、上質高尚な考えを持つ人の数をはるかに凌ぐ。これが常であり、まずはこのことが踏まえられねばならない。私は指摘しなければならない。彼らを統治するには、学者ふぜいの論議によってではなく、強権と恐怖政治(テロリズム)によって為すに如かず。これこそが最良の方法である。

 誰もが権力を欲し、誰もが独裁者になりたがる。実に個人的私益の為には公益を犠牲にしても顧みない連中ばかりである。我益を手中にすることを抑えて、万人の利益のために我が身を犠牲にしようとする者などは、めったに居るものではない。

 人間という名の禽獣を抑え、彼らを牽引してきたものは何であったか、それを思案せねばならない。社会の仕組みが始まった原始時代にはそれは暴力であった。その暴力の威圧の前に人々は盲目的に服した。その後には、法律に服するようになった。だが、この法律とて所詮仮面を被った暴力に他ならないではないか。これがありのままの法則であり、ここから推論すると、「正義は力の中に横たわっている」と結論したい。
政治的自由は単なる思想であっていささかも現実ではない。が、政権党派を打倒すべく、この思想を餌として人民大衆を我らが陣に引きつけるには、その撒き方や使い方を知っていなければならない。その際、打倒対象である相手方が自由思想、いわゆる自由主義リベラリズム)に立脚して政権を維持している場合には好都合である。そして、その思想のためになら喜んで全力を投げうつつもりがあるならば、仕事はさらにやり易くなる。

 この場合には、我々の所説が勝利することは目に見えている。政権の支配の手綱がゆるめられると直ちに、新しい手に手綱が執られるのは、自然法則の赴くところである。それは、盲目的な大衆にとっては一日たりとも指導者なしには済まされないからである。新しい権力者が単にすでにリベラリズムによって弱められた前任者の地位に座るだけのことである。
今日においては、自由主義的権力に代わって金力が支配する。かっては信仰が支配した時代があった。自由主義の理想が実現することは不可能である。なぜなら、誰一人としてほどよい使い方を知らないゆえに。

 人民大衆を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を与えるだけで十分である。与えた瞬間から尖鋭な共食い闘争が勃発し、やがては社会闘争にまで発展し、遂にはその真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、その権力は一山の灰燼に帰するであろう。

 国家が内乱によって消耗するか、内部不一致のために外敵の手中に落ちるにせよ、どのみちその国は回復できず没落するほかはない。その時こそ、我らの出番である。完全に我々の手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なく彼らはそれに縋(すが)りつかなければならない。拒めば底に沈むのである。

 リベラルな考えをもっている人が、上述のような考えを悪辣、不道徳であると評するならば、私はこれに対して次の問いを投げ返したい。どの国も内敵外敵両面の敵をもっている。外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会秩序の紊乱者、安寧の妨害者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳且つ許しがたいと云われなければならないのか? と。
大衆は、うわべのことにしか理性の力が働かない。愚にもつかぬ表面的なものへの反対とか批判にうつつを抜かし、反対ということを喜ぶ習性を持つ。かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けを借りて上手に大衆を導くことができるだろうか? 

 彼らは、もっぱら軽佻浮薄な情熱、迷信の類、風習的習慣、伝統、感傷的な理論に同調し易く、それらに囚われている間違いだらけの者達であり、故に党派の争いに巻き込まれがちである。

 故に、筋の通った議論を基にして出来上がっている調停案でもその妥協が潰され、合意が妨げられることになる。大衆の決議というのはどれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであるのだが、それは政治の裏面を知らずに、みすみす不条理な決議をさせられ、政治の中にアナーキーの種子を蒔き奇妙な芽を兆させるのである。
政治は、道徳とは何ら関係がない。道徳に基づき統治する支配者は練達の政治家ではない。そういう者が統治すると政権の王座は動揺し、永く保つことができない。支配したいと思う者は、我々が常々所有する新聞に感謝するところであるが、気付かれぬように策謀(欺瞞)と偽善との双方を用いなければならない。誠実や正直さとかのような、民衆において偉大な大徳目と称されるものは、政治においてはむしろ悪徳でしかない。

 それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。そのような徳目は、ゴイムの王国の属性にしておいてもよいが、我々ユダヤ人は決して彼らの轍を踏んではならない。
我々の正義は力の中に横たわる。「正義」なる言葉は抽象的な概念であって、なんら具体的なものではない。その言葉は次のことを意味するに過ぎない。「わが欲するものを我に与えよ。我が汝らよりも強きことを証せんがために」。

 正義(権利)は何に拠って始まり、どこで終るのか?  

 権力の仕組が薄弱で法律が空疎であり、リベラリズムの乱用により権利を乱発し、支配者たちが脆弱となった国家には、新たなる権利を見つけ出しこれを行使することができる。

 その新しい権利が既存の制度、秩序、法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、我々はリベラリズムの中で放棄されて残されていた彼らの権威ある権利を継ぐ王者となる。
あらゆる形態の政治権力が動揺している現在、我々の権力は、他のいかなる権力にもまして目に見えないであろう。我々の権力が敵のいかなる狡知をもってしてもこれを覆えさせられない強さに到達する瞬間まで、我々の権力は表面に出さないことにする。

 我々が目下用いざるをえない一時的な悪策から、確固たる善政が顕現する。この善政は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組みを平常の状態に修復することになるだろう。結果は手段を正当化するので、目的が善ければ手段は選ばない。我々の計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかにはこだわらないことに留意しようではないか。

 我々の眼前には戦略的に敷かれた計画がある。数世紀にわたる我々の辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されない。
我々が、我々の活動に有効な満足すべき行動を練りあげようと欲するならば、大衆の下賎さ、狡猾さ、だらしなさ、軽薄さ、無定見無節操さを考慮に入れ、彼ら自身の生活状況、あるいは彼ら自身の福利を顧慮する必要がある。大衆の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに衝動的に動き、判断力が弱く道理を弁えないということを踏まえておかねばならない。

 盲人が盲人を道案内すれば、共に奈落に落ちこむのは必然である。大衆から選ばれた何人かが天才的な賢者であったとしても所詮成り上がり者のこととて、政治の何たるかの真の理解に達しておらず、そういう指導者が指導すれば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然である。
 幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の秘訣つまり政治の基本を成り立たせているイロハ(ABC)を理解することができる。

 大衆が大衆に政治を任せれば、すなわち人民の中から選出された成り上がり者の代表者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。

 大衆がおだやかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心がごちゃまぜになっている国の諸問題を処理することが可能だろうか? 彼らが競争や個人的利害を度外視して国政を切り盛りできるものであろうか。外敵に対して有効に対応することができるだろうか? それは不可能である。なぜならば、大衆の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能なものとなるからである。
国家を見渡して全体を適切に要素化させ、これらを機関として纏め上げるといったような、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけである。このことから、どんな国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られる。

 文明は絶対専制の他には有り得ない。大衆によってではなく彼らを指導する絶対的な独裁によって政策が遂行されるでなければ、文明は維持できない。
大衆は野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮さを発揮する。下層民大衆が自由を手にすると途端にアナーキー無政府状態)に転ずる。そのアナーキーさこそ野蛮の極みであろう。

 飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになったゴイム(獣類動物)どもを見よ。自由がかれらに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。それは我々及び我々一族の歩む道ではない。ゴイムの畜生どもはアルコール飲料に酔いしれ、彼らの若者たちは因習陋習とごく若いうちからの性的堕落に痴呆状態となって成長する。

 その性的堕落は、我々の特別な代理人つまり富豪の邸宅の家庭教師、下男、家政婦、書記その他によって、しばしばゴイムの娯楽場にいる我らの女性たちによって手ほどきされる。かれら代理人の最後に、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵であるいわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておく。
我々の合い言葉は力と偽善である。特に力のみが政治的諸問題を克服する。政治家に本質的に必要な才能の中にこの力が宿されているならば、ことに然りである。

 強権政治が根本原則でなければならぬ。我々の後押しする政府の手先どもが強権政治を敷こうとしない場合には、欺瞞と偽計が用いられねばならない。これを鉄則とすべしである。この悪は終局である善に達するための手段にすぎない。

 それゆえに、我々は、目的達成のために役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りをためらってはならない。これが役立つ場合には躊躇無く用いねばならない。政治の世界では、相手を屈服させ支配権を握る為には、他人の財産を奪い取る方法を遠慮してはならぬ。

 我々の国家が戦争という方法によってではなく平和的な征服の道を進んでいる際には、大衆を盲目的に服従させる為に恐怖を用いねばならない。我々は、目につかないけれども効果のある死刑宣告をもって統治する権利をもっている。

 仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力である。単に利益を得るためのみならずわれわれの義務としても、また、勝利のためにも、我々は暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない。

 報復主義は使われる手段と同じく、有無を言わさず強力である。それは手段そのものであるというよりも、我々が勝利し、すべての政府を我らの超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。我々は抵抗する者及びその精神に対して容赦なく鉄槌を浴びせ、二度と歯向かわないように十二分に思い知らせる。
はるか以前の時代にさかのぼれば、我々は大衆の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人達であった。以来、幾度となく愚かなオウムたちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の繁栄と、以前は下層民の圧力に対して頃合い善く保護されていた真の個人的自由を、この餌をもって破壊し去った。

 教養あり才智ありと自称するゴイムの知識人も、この三つの標語の間に隠れている矛盾に気がつかなかった。これらの言葉が意味するものとその相互関係を検証せねばならぬところを為さず、その矛盾に気づいて否定せねばならぬのに、そこまでは考え及ばなかった。彼らは、自然界には平等の存立しないことや自由など有り得ないことに留意しなかった。

 自然界には掟があり万物はその掟に従わせられるように作られているように、我々もまた気質、性格、能力が不平等に作られていることを見なかった。結局、ゴイムの知識人は「自由・平等」からは何も作りだすことができなかった。

 彼らは、大衆が盲目であること、彼らの仲間から選ばれ支配を委託された選良にしても、政治に関しては大衆と同様に盲人であることを見抜かなかった。政治の奥義を授けられた者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられない者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった。これらのことを、ゴイムは一切顧みなかった。

 永い間一貫して王朝政治が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからである。王室以外の者や統治される者には誰にも知らされない政治統治の奥義が、父から子へ一子相伝で伝えられたのである。時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われた。このことが、我々の主義を成功に導く絶好の機会となった。

 地球上のいたる所で、我らの盲目の代理人たちのおかげで、「自由・平等・友愛」 という言葉が、我らの旗を熱狂的にかざす大群を、我々の隊列に引き入れてくれた。これらの言葉はまた常に、ゴイムの繁栄を蝕み、いたる所で平和、安寧、協同を毀損し、ゴイムの国家の基礎を破壊する生きたエダシャクトリ(果樹の害虫)となった。後に述べるように、このことが我々の勝利を助けた。
こんな風に我々に幾多の有利な材料はあったが、とりわけ、我々に切札を手中にせしめたのは、特権の破壊、云い換えればゴイム社会のにおける貴族支配の存在そのものの破壊である。唯一、人民と国とを守るこの階級は、我々に敵対してきたのである。

 ゴイム社会における血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた廃墟の所に、我々は、我々の金力が主導する、我らの教育を受けた階級を貴族として樹立した。それが金権貴族政治である。金権貴族政治は、我々自身のものである富と、我らが学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立されたところに特徴がある。
我々の勝利をいっそう容易ならしめた事実がある。それは我々に必要欠くべからざる好ましい人物たちとの交際を通じて、我々は常に人間心理の琴線をくすぐり、即ち金銭欲、貪欲、人間のあくことをを知らない物質的欲望に働きかけた。云うまでもなく、これらへの耽溺はいずれも独創性を麻痺させる効果がある。これ故に、彼らの心と意思を、彼らに金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねることになる。 
自由という言葉の空疎な抽象性が大衆にこう考えさせるようになった。彼らの統治者・政府などは、本来の国家の所有者である人民に委任された管理者(豚小屋の番人)に過ぎず、従って番人は使い古しの手袋のようにいつでも取り替えられるものだ。そう思い込ませることができた。

 人民の代表者が取り替えの効く仕組みとなっていると気づかせるのは我々の思う壺で、我々が自由に利用できるということであり、云うなれば、我々に代表者の身柄を預けたようなものであり、我々が代表者の任命権を握ったことになる。